【私の章】私の自家用車遍歴(一気にグレードアップ編)

1台目に買った車は、三菱のランサーフィオーレ(1,500cc)、2台目に買った車は、日産のブルーバード(1,800cc)でした。

このブルーバードも、1回目の車検の前に手放しています。

3台目に買った車は、トヨタのマークⅡでした。

排気量は、一気に2,500ccまで上がりました。

 

3台目に買い替える時は、きまぐれみたいなものでした。

会社の同僚が、車を買うとか買わないとか言って、少し周囲の話題になっていました。

その時に、私がいきなり買って、周囲を驚かせることになりました。

 

会社では、私がマークⅡを衝動買いしたことになっていました。

それは、事実だったかもしれません。数日前までは、買い換えるつもりは無かったので。

 

1台目は、何の縁もない車種でしたが、2台目のブルーバードは、兄が乗っていた車種でした。

兄が乗っていたブルーバードは、歌手の沢田研二が、赤いブルーバードに乗ったCMを行っていて、兄がそれと同じ車に乗っていたので、ブルーバードには憧れがありました。

なので、選んだのです。

3台目となる、マークⅡは、会社の同期が入社するとすぐにマークⅡを買って、自慢げに乗っていたことを思い出していました。

同期の彼(1台目を買った際に登場した同期とは別人です)が乗っていたマークⅡは、大ヒットした車種でした。

 

また、同期達と5月の連休に東北旅行をしたことがあるのですが、その時に、彼が車を出してくれて、免許を持っている人が交代で運転させてもらいました。

私も、少し運転させてもらいましたが、その時の高速道路での走りや、一般道での走りに凄いと感じたものでした。

 

なので、いずれは乗ってみたい車だったので、買いました。

ですが、実は、私が買った時代の車は、デザインが今一つでした。

やぼったい感じで、ずんぐりむっくりとしたボディーでした。

 

でも、乗りたいという欲求の方が強く、デザインにはこだわらずに性能重視で購入しました。

 

トヨタ マークⅡ 2500cc ツインカム グランデ>

排気量: 2,500cc

色: フラクセンマイカメタリック

特徴: オプションでデジタルタコメーターにしました

    カセットテープに加えて、初めてCDが付きました

   (それまでは、カセットテープのみでした)もちろんラジオは付いています

    パーキングブレーキが、サイドから足踏み(フット)になり感激しました

価格: 2,710,400円(店頭渡し現金価格)

 

カタログ(その1)

カタログ(その2)

カタログ(その3)

当時の価格表

走りは、先の2台に比べると、格段の違いがありました。

 

加速はスムーズだし、高速域も安定した走りができます。

さすがマークⅡといった感じです。

 

嫁さんと結婚する前にデートした車がこの車でした。

車でハートをゲットした訳ではありませんが、結婚後、彼女曰く

彼女の父親が、かつてマークⅡに乗っていたこと、また車中で聞いていたCDが高橋真梨子の『ジョニーへの伝言』や『五番街のマリーへ』が父親の選曲と一緒だったということが、決め手になったと言っていました。

 

車の大きさが大きくなり、最初は戸惑いましたが、慣れとは恐ろしいもので、そのうちに何の抵抗もなく運転できるようになっていました。

<次に続く>

 

【私の章】私の自家用車遍歴(一度も車検を通さずに乗り換える編)

最初に購入した車は、三菱のランサーフィオーレ アレックス(1,500cc)でした。

この車は、大阪勤務時代に購入したので、関西を中心に乗っていました。

その後、東京転勤となり、まだまだ運転に自信がなかったので、東京への引っ越しは陸送というもので送ってもらいました。(引っ越し代は、会社で負担してもらったので、費用がいくらかは知りません)

 

そうこうしている内に、3年近くを迎え、1回目の車検の時期が迫ってきました。

独身で、これといった趣味も無かったので、そろそろ車を買い替えたいという欲求に駆られました。

これが、1回目の車検を通さずに乗り換える人生の始まりでした。

 

2台目は、1台目の時に高値の華で買えなかった日産、トヨタ、ホンダの中から買いたいと思いました。

東京に引っ越して(正しくは、埼玉県ですが)住んでいる所の近くに、日産のローレル販売店がありました。

そこにふらりと行って、「ブルーバードを下さい」と言ったのです。

 

そしたら、販売店の人は、「うちはブルーバードを扱っていません。うちで売ることができない訳ではありませんが、専門に扱っている店の方が良いでしょうと言って、〇〇を紹介しますから、そこに行ってください」と言われました。

 

そうです。当時は、日産やトヨタといっても、系列があって販売している車が異なっていたのでした。そんなことも知らなかったのです。

今でこそ、日産は2系列に絞り込まれており、トヨタに至っては全車種扱うことになっていますが、かつては、売っている車が違っていたのです。

 

なので、その日のうちに、比較的近かったブルーバードを扱っている販売店に行きました。

そこで、見積もりをしてもらい、何とその日の内に契約をしたのです。

若干、値引きをしてもらったと思うのですが、値引き交渉というものを知らなかったのです。(私は、金持ちのボンボンではありません。至って平凡な庶民です)

 

契約書にサインをした後、「ちなみに、△△さん(ローレルの販売店の人)とは、どういう知り合いですか」と聞かれました。

なので、ここに来た経緯を説明したのですが、△△さんが書いていただいた名刺がどれほど効果があったのか、永遠の謎となってしまいました。

 

その時思ったのが、知り合いに自動車関係の人がいれば、車が安く買えるのではと思いました。ですが、その後、いろいろと異なるメーカーの車を買う私にとって、親せきや友人に車関係の人が居なくて良かったと思うことになります。なぜなら、何しがらみもなく、好きなメーカーの好きな車に乗れるのですから。

 

さて、話がだいぶ逸れましたが、私が乗った2代目の車は、日産のブルーバードです。

確か、ブルーバードスーパーセレクトという車だったと思います。

<ブルーバード スーパーセレクトの仕様>

排気量: 1,800cc

色: グレイッシュグリーン

特徴: 4ドアセダン

カタログ(その1)

カタログ(その2)

カタログ(その3)

ランサーフィオーレに比べると、大きくなったし、装備も充実し、乗り心地がかなり良くなったことを覚えています。

 

車を改造したりしない人ですが、オートバックスフォグランプを付けたことも印象に残っています。

霧や濃霧の時に、相手に自分の存在を知らせることに優れてた黄色い光を放つランプです。

 

この車では、関西の実家に帰省したものです。

一人で、長距離でも、高速道路でも走れるようになりました。

<次に続く>

 

 

【私の章】私の自家用車遍歴(1台目を購入するまで編)

私は、20歳で自動車の運転免許を取得しました。

京都の自動車学校に通いました。(筆記試験は隣接県で受けました)

 

住んでいた場所から通える範囲には、二つの自動車教習所がありました。

あくまでも噂でしたが、一方は免許は取り易いけどそこの卒業生は事故率が高いと

言われていました。もう一方は、厳しいけど事故率はもう一方ほど高くないと言われていました。

 

私は、迷わず厳しいけど事故率の低い方に通いました。

その方が、免許を取ってから苦労しないのではと考えたからです。

自動車の運転技術と運動神経とは、何ら関係ないと思いますが、運動神経があまり良くない私は、教習で3回補習を受け、卒検で1回落ちています。

 

教習所の実技では、教官からかなり厳しい指摘があり、自分には運転は向いていないとめげることが度々ありました。

 

その頃に流行っていた歌が、松田聖子の『夏の扉』でした。

還暦を過ぎた今でも、この曲を聴くと当時を思い出し、ブルーな気持ちになります。

(曲自体は、明るい軽快な曲なので、当時はこの曲に励まされた記憶があります)

 

筆記試験は、1回で合格です。(当たり前ですかね)

 

それから、大阪の会社に就職しましたが、都市部では自動車は必要なくしばらくはペーパードライバーでした。

 

20代後半には、ゴルフをやり始めました。周りにはゴルフ好きが多く、車が無い私でも誰かが送り迎えをしてくれました。

その後、関連の病院に駐在勤務することになりました。

病院は、比較的マイペースな人が多く、平日に休みを取ってゴルフに誘ってもらうことが増えました。(今のコロナ禍での総合病院の状況では、想像もつかないと思います)

 

病院の方々は、とても人が良くて、住んでいる方向が違う私の家にも、寄り道をして送り迎えをしていただきました。それも、かなり年上の役職のある方でもでした。

そういうことが続くと、流石に申し訳なく思い、自分の車を持ちたいなと思っていました。

 

そんな時に、会社の同期が車を買い替えることになり、私に車を安く譲ってもらうという話になりました。

私は、その気になっていたところ、同期が「高く下取りしてくれたので、譲る話は無かったことに」と言われてしまいました。

自家用車を所有する気になっていた私は、悶々とし、じゃ自分で車を買おうということにしました。

 

当時は(今もですかね)、日産、トヨタ、ホンダの車が人気で、私が買える車種は見つかりませんでした。なので、その他のメーカーで探していました。

ほぼ絞り込んだ頃に、かの同期に「この車を買うつもり」と話したところ、「それは止めた方が良い。自分が知っている自動車販売店があるから紹介してやる」ということになり、同期の幼馴染の人が社長(2代目)をやっている会社から購入しました。

 

いろいろなメーカーの車を扱っている会社でしたが、私に勧められたのは『三菱のランサー・フィオーレ アレックス』という車でした。

<ランサーフィオーレ アレックスの仕様>

・メーカー: 三菱自動車

・排気量: 1,500cc

・色: 白とグレーのツートン

・特徴: 4ドアセダン、オートマチック、パワーステアリング

     運転席と助手席のみパワーウンドウ

・車両本体価格: 記憶が定かではありませんが、100万か120万だったと思います

カタログ(表紙)

カタログ(見開き)

カタログ(最終ページ)

初めての車としては、小型で取り回しも良く、自分には合っていたと思います。

この車をスタートに、私の愛車遍歴が始まりました。

<次に続く>

 

 

 

【私の章】入学式の苦い思い出

4月は、桜の季節です。

子供の頃は勿論、20代の頃まで、桜をじっくり眺めることはありませんでした。

田舎育ちなので、小学校から高校までの通学途中に、桜が咲いている所を通っているはずですが、綺麗だとか、花びらが散るのを見て、はかないとか思ったことはありませんでした。

それが、この年になると、季節の移り変わりや、春は桜、秋は紅葉とか、自然が大好きになっている自分が不思議です。

 

こんな気持ちが子供の頃にあったら、毎日の通学が楽しくて、心が和んでいたのではと思ったりします。ですが、こういった自然を愛でる気持ちは、熟年の大人になってから身に着くものなのでしょう。

 

話が、かなり逸れてしまいましたが、桜の季節=入学式に関する苦い思い出があります。それは、中学3年生の時の話です。

当時、生徒会長をしていたので、入学式で新入生を迎える挨拶をすることになりました。

春休み期間中に学校に通い、挨拶文を担任の先生に添削してもらいました。

原稿は手持ちして良いが、挨拶は原稿を見ずに話しなさいと言われ、文章を暗記しました。

そして、いよいよ入学式が始まりました。

 

おそらく司会進行は、1年生を担当する先生だったと思います。

式の後半あたりに、それでは在校生から新入生を迎える挨拶をお願いしますと紹介があり、私が起立して、新入生の前に立ちました。

 

右側の来臨席に向かって深々とお辞儀をして、左側の先生方に向かって深々とお辞儀をしました。

そして最後に新入生に向かってお辞儀をした後、いよいよ挨拶です。

開口一番、

「新入生に皆さん、ご卒業おめでとうございます。」

 

心の中で、「しまった」と思いました。やってしまったと。

思わず「すみません」とまで、言ったのは何となく憶えています。

その後は、頭が真っ白になって、その後、どう挨拶したのか、まったく憶えていません。ですが、そこで倒れたとか、誰かに付き添われて席に戻ったとかではないので、何とか挨拶をして終わったのでしょう。

 

なぜ、このような言葉を発したかというと、つい先日までは、卒業生に人に向かって、「ご卒業おめでとうございます」と連呼っするではありませんか。

入学式とは違い、当時は卒業式は、何回も何回も練習して臨むものでした。

加えて、入学式の挨拶の練習をする中で、間違ってもご卒業と言ってはいけないと頭の中で言い聞かせていました。結果的に、これが逆効果だったのです。

間違えてはいけないと思えば思うほど、インプットされてしまうのです。

 

翌日は、学校に行きたくないと思いましたが、根が真面目なので、ずる休みもできず、登校しました。

学校では、誰一人冷やかす人もいなくて救われました。

 

今なら、「卒業おめでとうございます」と間違ったら、続けて「これは、冗談です」と笑いを誘うこともできたと思いますが、14才の子供では、そんな機転はできませんよね。

 

 

 

 

 

【妻の章】自動車教習所にて

私の妻は、自動車運転免許証を持っています。

 

免許取り立ての頃、父親の自動車(外車なので左ハンドル)を1度運転したきり、運転はしていません。

正確に言うと、私と結婚する前に、会社の仲間と富士五胡の一つである西湖にバーベキューに行ったときに、湖の近くで私の車を少しだけ運転したことがありました。

それ以外は、運転していないと思います。

 

父親の車を運転した時は、妻の家族で旅行をした時だそうで、高速道路を運転したそうです。

おっかなびっくりで運転していたそうで、左の走行車線をとろとろと運転したそうです。

父親から、スピードが遅すぎても交通違反だと脅されて、頑張って運転し、インターチェンジを降りたところで、父親と交代したそうです。

ホテルに着いた途端、疲労が一気に来て、食事の時間まで寝ていたそうです。

 

私の車を運転(と言っても、2メートルバックしただけですが)した時には、周囲に居た会社の人達は、蜘蛛の子を散らすように、車から逃げました。

結婚してから妻が毎回言うのですが、「よく、私に運転させたね」と彼女自身も驚いています。

 

妻ですが、運動神経はあまり良くありません。

ちゃんと運転している姿をみたことは無いですが、運転が苦手だと何となく分かります。よくぞ、教習所の教官は、講習の終了のハンコを押したものだと呆れてしまいます。それくらい、自動車の運転には、適さない人なのです。

 

端的なエピソードがあります。

通っていた教習所の教官が発した言葉です。女性の教官だったそうです。

なぜか急に、「あなたは、自分が運転している車の前に、ドラム缶があったとしたら、迂回せずに、誰かがそれを動かしてくれるまで動かない人でしょう」と言われたそうです。

彼女は、その時、初めて担当した人なのに、なぜそこまで言われるのと腹が立ったそうです。ですが、言っている事は当たっていると思ったそうです。

私も、そのエピソードを聞いて、彼女の性格を言い当てていると思いました。

私は、結構前に、彼女に「あなたは、自分中心に地球が回っていると思っているでしょう」と言ったことがあります。

 

そうです。それくらい自己中な人なのです。

なので、自動車の運転はしてはいけないのです。ですが、二十歳の頃に免許を取って、それ以来、今まで免許は更新しています。まさに身分証明書代わりなのです。

 

結婚前に、彼女の性格を見抜いていた私ですが、なぜか今、私の妻なのです。

私も変人ですかね。

 

 

 

 

 

 

私と妻の昔話

はじめに

結婚して、25年以上経ちました。

私はというと、60歳を過ぎて、定年を迎える歳になりました。

あくせくしてきた今までのサラリーマン人生から、少しペースダウンできるようになりそうです。

 

持て余しそうになるだろう時間を利用して、私と妻について、いろいろと徒然なるままに昔話をしたいと思います。

 

自分に関する話は、当然ながら自分の体験談を書けば良いです。

翻って、妻に関する話は、私が関わってきた事柄は事実を書くことができますが、結婚前の話は、妻から聞いた内容を書くことになります。

ですが、妻の昔話についても、かなり詳細に書く自信があります。

なぜならば、妻はとてもおしゃべり好きで、昔の話を何回も聞かせてくれているため、レコーダーに記憶させているんではないかと思うくらい、忠実に同じ内容なのです。

なので、私も覚えてしまっているくらいです。

 

話す内容は、順不同です。

時系列に書く自信がないからです。